石井十次の生涯

人格形成に多大な影響を与えた明倫堂教育

十次ポートレート石井十次は慶応元(1865)年、宮崎県児湯郡上江村馬場原(現・高鍋町馬場原)に高鍋藩の下級武士・石井萬吉の長男として生まれました。母・のぶ子は貧しい人を手助けする優しい性格で、その姿を幼い頃から見ていた十次は、困った人を見ると助けずにはいられない性格に育ちました。

その性格に加え、思想や人格形成に大きな影響を与えたと考えられるのが高鍋の気風です。当地には90年以上の歴史を持つ高鍋藩明倫堂教育と呼ばれる教育文化が根付いており、年長者を敬い困ったときは助け合うという精神風土が形成されていました。十次は6歳からこの明倫堂で学び、薫陶を受けたのでした。

そのことを物語る有名なエピソードがあります。7歳の時のこと。村の祭りに母から新調してもらった帯を締めて出かけると、神社の境内でぼろの浴衣に縄のおびを締めた貧しい友人に出会います。友人は身なりのことでいじめられて泣いていました。そこで、自分の新しい帯をあげて励ましたのです。十次からその話を聞いた母は「よいことをしたね」と褒めてくれたといいます。

この「縄の帯」の話は、自分のものを差し出して人を助ける十次の心を表す話として今も高鍋町の小・中・高校生に語り継がれています。

攻玉舎への入学と挫折。医学の道をめざし岡山へ

十次は14歳の時、国の役に立ちたいという気持ちから、海軍士官を志し東京の攻玉社に入学します。しかし、脚気を患い翌年に帰郷。その後、16歳で内埜品子と結婚。小学校教諭や宮崎警察署の書記など、職を転々とするなか、宮崎病院院長の萩原百々平医師に出会います。熱心なクリスチャンだった萩原医師からキリスト教の博愛精神の教えを受けた十次は、医者になって多くの人を救うという新たな目的を持ち、明治5(1882)年、17歳で岡山県甲種医学校へ入学。岡山基督教会の金森通倫牧師と出会い、19歳で洗礼を受けます。

19歳の夏休み、帰省した十次を地元の青年たちは祭りを催して歓迎しました。十次は歓迎に感謝しながら青年たちに教育の大切さを訴え、馬場原教育会の設立を呼びかけました。そして昼間は地元の青年と共に農作業に汗を流し、夜は共に学ぶ学校を設けました。その頃から、人の自立に教育が欠かせないという強い思いを抱いていたのです。

児童救済のきっかけとなった巡礼の子との出会い

十次が医学の実習をしていた岡山県大宮村の診療所の隣に、貧しい巡礼者の宿となっていた太子堂がありました。ある日、十次はそこで2人の子どもを連れた女性の四国巡礼者に出会い、上の男の子だけでも預かってもらえないかと懇願されます。十次は妻の品子と相談し、その男の子を引き取ります。その後、2名の孤児を預かりますが、自宅は手狭になってしまいました。そこで、岡山市の三友寺の一室を借りて移り住み、明治20(1887)年、孤児救済のための「孤児教育会」の看板を掲げます。

この頃、英国で1万人以上の孤児を救済したブリストル孤児院のジョージ・ミューラー氏が来日。十次はその生き方に感銘を受け、日本のミューラーになると決意しますが、医学との両立は困難でした。しかし、「医者になる者はほかにいるが、孤児救済は自分しかできない」。そう考えて、これまで学んだ医学書をすべて焼き捨ててしまいます。それは一生を孤児救済に捧げるという強い覚悟の現れでした。

岡山孤児院創設、苦境に屈せず児童救済を進める

孤児教育会はその後「岡山孤児院」となり、孤児の数は徐々に増えていきます。明治25(1892)年には濃尾大地震で被災した孤児や岡山市大洪水の被災孤児、明治39年には東北地方を襲った飢饉による孤児を引き取り、岡山孤児院の孤児数は1200名にのぼりました。孤児院の経営は苦しく困難が尽きませんでしたが、持ち前の猪突猛進の性格で、何事も情熱を持って突き進みます。

十次は寄付などで単に施しを与えるだけではなく、子どもたちに教育を施して手に職を付けさせ、自立へと導きました。孤児たちが学ぶ私立尋常小学校を苦労の末に開校しましたが、職業訓練を兼ねた事業部では活版印刷や機械織りなどをおこない孤児院の貴重な収入源としました。また、孤児による音楽幻燈隊を編成し、全国はもとよりハワイや台湾で公演し寄付金を募りました。

また、おなかいっぱい食事を与える満腹主義や、子ども一人ひとりと向き合う密室主義、保育士を中心に子ども十数人が小さな家で生活を共にする家族主義など、先駆的な養護法で児童教育に取り組みました。

郷里、宮崎の茶臼原に見いだした理想とする郷

茶臼原孤児院児童

茶臼原孤児院児童

十次の精力的な活動は人々に感銘を与え、児童福祉という概念とともに、徐々に賛同者や協力者を増やしていきました。なかでも、倉敷の実業家・大原孫三郎は十次に共鳴し、絶大な協力者として経済的な援助をおこないました。

そんななか、十次はフランスの思想家ルソーの「エミール」に感化を受け、「幼児は遊ばせ児童は学ばせ青年は働かせる」という時代教育法を編み出します。そして、子どもたちが大自然のなかで働き、かつ学ぶ理想郷実現をめざし、明治27(1894)年、郷里の宮崎県茶臼原で開墾を開始。大正元(1912)年に孤児院の全面移転が完了しました。しかし、長年の無理がたたったのか、十次は病床に臥し、大正3(1914)年1月、孫・虓一郎の誕生の知らせを受けた後に48年の生涯を終えます。

郷土の政界人や孫に受け継がれた石井十次の精神

友愛社石井十次記念館

友愛社石井十次記念館

岡山孤児院は大原孫三郎らに引き継がれますが、大正15(1926)年に一旦、解散します。その後、宮崎県会議員や宮崎市長、高鍋町長などを歴任した柿原政一郎が石井記念協会を設立し、残された土地や建物、写真などを管理。昭和20(1945)年、十次の孫の児嶋虓一郎が第二次世界大戦による孤児を受け入れるため、児童養護施設「石井記念友愛社」を設立し、現在は虓一郎の次男・草次郎が理事長を務めています。

TEL 0983-23-4312 受付時間 9:00 - 18:00 [ 土・日・祝日除く ]

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